The Killing Fields (WB, 1984)        back to the previous page

  1973年のカンボジア。ベトナム戦争で手を焼いていたアメリカは、ベトコンの補給路の1つであるカンボジアを爆撃して戦場を拡大した。ニューヨーク・タイムズの特派員Sydney Schanberg (Sam Waterson)は、カンボジア人のガイドPran(Ngor)とともに、戦場の実情を伝えようとして駆け回る。1975年にはクメール・ルージュが政府軍を圧倒するようになり、プノンペンは包囲される。プノンペン陥落の直前の慌ただしさ。アメリカ大使館の星条旗が降ろされ、アメリカ軍がプノンペンを撤退する様子は、ちょうどサイゴン陥落の時と同じだ。多くのカンボジア人がつてをたよってアメリカ軍のヘリコプターに乗せてもらおうとするが、正式の許可証のない者は拒まれ、クメール・ルージュに運命を任せることになる。Sydneyは、Pranの家族についてはアメリカ大使館の許可を得て、運良く脱出できた。しかし、SydneyとPranは、他の新聞記者達とプノンペンに残る。アメリカ軍の撤退とぼぼ時を同じくして、赤いターバンと赤い布を首に巻いたクメール・ルージュがプノンペンに入ってくる(1975/4/17)。初めは、市民達も戦争が終わったと思って彼らを歓迎する。しかし、やがて市内の各所で、旧政府関係者らの殺害、そしてプノンペン市民全員の強制退去が始まる。(日本のテレビでも放映された強制退去後の人気のないプノンペン市内をデンマークの新聞記者が隠し撮りした風景を思い出す。) SydneyとPranは、クメール・ルージュの兵士達に捕まり、危うく殺されそうになるが、なんとか釈放され、かろうじてフランス大使館に逃げ込む。しかし、クメール・ルージュの兵士の囲まれており、逃げ場はない。やがて、クメール・ルージュから、フランス大使館に逃げ込んだ旧政府関係者の引き渡しが求められる。さらに、すべてのカンボジア人の引き渡しが求められる。Sydneyらの外国人は、国外退去を許されたが、Pranはクメール・ルージュに引き渡され、農村の強制労働に連行される。ここからPranのサバイバルのための苦労が始まる。クメール・ルージュの少年・少女兵がもとの教師を見つけて殺害したり、手を見て労働の跡がないようなインテリを見つけ出しては殺したり、そのほかにも理由泣く殺される多数のカンボジア人。すさまじい光景だ。やがてPranは好きを見て逃げ出すが、途中で処刑された遺体の放置された現場にぶつかる。無数の人骨や腐乱した死体が散乱した様は、身の毛がよだつ。この映画は、プノンペン郊外の処刑所Choeung Ekがモデルになっている。・・・・

  私は、クメール・ルージュが崩壊して、再び理性と平和を取り戻したプノンペンに仕事で行ったが、そこで会ったカンボジア人達は皆穏やかで人なつこかった。彼らがどうやってクメール・ルージュ支配下のカンボジアを生き延びたのか聞きたかったが、なんとなく聞きにくかったために聞きそびれてしまった。また、プノンペン近くにある強制収容所の跡(現在は博物館になっている)を見に行きたいと言ったのだが、カンボジア人の友人は行きたくないというので、結局、これも見そこなってしまった。おそらく私自身も、できれば見たくなかったのであろう。嫌なものに目をつぶってしまったことを後悔している。クメール・ルージュの時代には、カンボジアの人口約700万人の中、約170万人が殺されたか、強制労働で死亡したと言われている。ポル・ポトを含め、多くのクメール・ルージュの幹部がフランスに留学した者だったこと、そして彼らの革命思想がかえって多くのカンボジア人民を殺すことになったことに、誤った思想の怖さと人間の愚かさを感じずにはいられない。

  
    Choeung Ekで殺された人々
 (写真はWikipedia -- Khmer Rouge より)